学園誕生

学園誕生 (伏見台地の歴史)

 かつて「陸の孤島」と呼ばれていた鹿島地方の地域開発は、昭和36年に策定されたマスタープランによって始まり、翌年開発組合が設立されて実行に移されることになりました。
 38年には工業整備特別地域としての閣議決定がなされ、本格的な開発へと進みました。
 44年には人口港湾としての鹿島港が開港し、進出企業の操業も開始され、その後石油化学コンビナートなどの建設が相つぎ、人口も増加して、地域の産業・経済は飛躍的に発展を遂げました。
 40年代後半になりますと、それまでの発展に加え、文教面での一層の充実かつ多彩な教育環境が切望されるに至りました。この地元の熱心な要望に応え、また鹿島開発事業の集大成として、人間育成に取りかかることとなり、ここに中高一貫の私立「清真学園」が設立されることになりました。
 爾来、本学園ではその校名「清真」にふさわしい、徳性豊かで、知性・創造性に富み、広い視野を持った心身共に健康な人間の育成を目指し、六年一貫・少人数の利点を十分に活かした教育を実践し、今日に至っております。平成22年3月現在で高等学校の卒業生は約6000名に及び、各界で活躍しております。

昭和50年3月  清真学園設立準備財団認可
昭和51年11月 校舎建設起工
昭和52年9月  学校法人及び学校の設置認可
昭和53年3月  校舎竣工
昭和53年4月  開校式及び第1回高等学校・中学校入学式
昭和53年9月  第1回文化祭(創立記念祭、第2回から創陵祭)
昭和53年11月 第1回強歩大会(第3回から体育祭に変更)
昭和56年2月  第1回高等学校卒業式
昭和56年3月  第1回中学校卒業式
昭和57年2月  清和寮竣工
昭和58年4月  高等学校増築校舎落成
平成元年10月  創立10周年記念事業として新校舎及び岩上記念第2体育館等竣工
平成4年3月   中学校増築校舎落成
平成7年3月   高等学校増築校舎落成
平成10年10月 創立20周年記念式典、図書館書庫増築落成
平成11年2月  テニスコート移転増設竣工
平成12年3月  美術デッサン室竣工
平成15年3月  高校棟中学棟暖冷房用エアコン工事竣工
平成16年11月 パシフィック・ルーサラン・カレッジ(オーストラリア・クィーンズ         ランド州)と姉妹校締結
平成19年4月  文部科学省スーパーサイエンスハイスクール指定
平成20年11月 創立30周年記念式典、校舎外壁修復工事
平成24年4月  文部科学省スーパーサイエンスハイスクール(第2期)指定

歴代理事長

 初代  岩上 二郎  昭和52年9月~
 2代  古橋  靖  平成 2年9月~
 3代  菱村 幸彦  平成17年5月~
 4代  林田 英樹  平成26年4月~

歴代校長

 初代  大場 岩夫  昭和53年4月~
 2代  引地  博  昭和57年4月~
 3代  石崎 昭夫  昭和63年4月~
 4代  荒川  汪  平成 5年4月~
 5代  十文字道夫  平成10年4月~
 6代  佐藤 敏近  平成16年4月~
 7代  大津 浩美  平成27年4月~

伏見台地の歴史ー清真学園前史ー

 鹿島台地の樹枝状に変化する末端の伏見台地に人々が住み始めたのは、ナイフ形石器の出土によっておよそ一万年以前のことと推察される。それは伏見台地のみならず、北浦を取り巻く台地上が生活の場として適切な環境を形成していたからであろう。縄文時代に入ると、多くの土器が製造使用されたようである。伏見台地には早期に属する土器、なかんずく撚糸文土器が大量に埋蔵され、さらに沈線文系土器も多く出土しているところからすれば、人々は明らかにこの台地で生活を営んでいたのである。また、住居址や炉穴の検出によって、集落を形成していたことも知られる。
 伏見台地に清真学園は立地するわけであるが、敷地内の遺跡を伏見遺跡と称している。遺跡と現在の施設との関係をたどってみるとどうなるであろうか。昭和五十一年五月から始まった予備調査の際に設定されたトレンチは東西に三本、北東から南西にかけて一本、北西から南東にかけて一本の計五本である。東西の三本は上部グラウンドにほぼ平行して神武殿の地まで掘られ、他の二本はそれぞれの両端から第一体育館の玄関辺りで交差し、理科棟にかかるところに設定された。また、試掘穴は本館棟講堂の辺りから中庭一帯に及んでいるが、本調査区域はA・Bの西地区、C・D・Eの東地区に二分されるが、同一の遺跡と確認されている。西地区は中学棟の東側から講堂の一部を含んで美術棟の区域、東地区は第一体育館から北側にグラウンド東部分から神武殿全域が該当する。西地区は縄文時代早期中葉、東地区は早期前葉の土器が出土し、周辺でも土器片が採集されている。東地区には石器の製作址のようなものが存在したようである。
 さらに、西地区では住居址が九、炉穴群が三、その他土壙等が検出されているが、ちょうど美術棟の領域に第三・四・七・八・九号住居址と第二炉穴群が重なっている。東地区では第一体育館の辺りから神武殿にかけて夥しい土器や石器が出土し、これらの土器は八群に分類され、早期前葉から後期前半に及んでいる。
伏見遺跡は東端(神武殿の地)から縄文早期の文化が開化し、早期中葉には中央付近から西方へ広く分布するようになり、後葉になると中心はそのほとんどが西半分へ移ってしまい、中期以降また東へ移動してくるようになる。
 弥生時代以降では東西地区ともに土師器や須恵器が出土し、弥生土器は東地区でその土器片が検出されている。また、歴史時代のものと思われる円形ピットが発見されている。
 西地区の中央部辺り(美術棟と講堂棟の中間位の所)に水源がみられ、これを取り囲むように南向きの舌状台地が広がっており、背後の森林地帯や台地直下の水辺には食料資源が豊富であったと思われ、数千年にわたる人々の生活の舞台であったことが確認されるのである。
 このようにして、伏見台地はその姿を明らかにしたのであるが、鹿島町(当時)において先土器時代の遺跡は初めてであり、特に撚糸文土器は伏見遺跡のみであった。いずれにしても、鹿島台地の歴史の一端を解明する貴重な資料を提供したのが伏見遺跡なのである。
 なお、昭和五十六年に実施された北側の隣接地(グラウンド及び学生寮建設に伴うもの、後一部女子短期大学敷地となる。中町附遺跡とよぶ。)では六条の溝や集石炉が土器・石器とともに検出されている。
以後、伏見台地は鹿島神宮の神域として位置づけられていくが、文献史料上に詳細をたどることはできない。ただ、『常陸国風土記』によると、鹿嶋一帯は那賀郡に属したが大化五年に香島郡となり、奈良時代に至って鹿島郡となったことが知られる。初め、郡家は神宮北側の田野辺あるいは山之上に置かれていたので役人が通行したかもしれないが、その後南側(今日の神野向)に移った。
 平安時代初期には鹿嶋郷(『和名類聚抄』)の一部であったが、神宮造営ために那賀郡一帯に用材を求めた際にはその運搬が容易でなかったので、神宮近辺に栗の木を植栽し用材としたことが知られる(『三代実録』貞観八年正月二十日の条)。
 鎌倉時代に鹿嶋郡や行方郡には神領が形成されたから(鹿島神宮文書「鹿嶋神宮領田数注文案」)その一部となった思われるが、戦国期に鹿島氏が城を築き神宮の総追捕使になった後はその勢力下に入ったであろう。戦国末期には佐竹氏、そして江戸時代には徳川氏の支配下となり、神宮は二千石の神領を認めらたから伏見台地もその中に組み込まれたはずである(鹿島神宮文書「伊奈忠次等連署神領目録案」に宮中一円の石高が千三百九十石三斗二升とみえる)。
 江戸時代に神領だった伏見台地は、明治維新後の行政区はめまぐるしく変化することとなった。明治四年五月、すでに鹿嶋の一部が属していた宮谷県の管轄とされたが、十一月に宮谷県が木更津県に編入されたため新治県の管轄に入り、さらに明治八年五月新制茨城県の所管となった。その後、郡区町村編成法によって連合村が生まれ、明治二十二年宮中村と根三田村の併合による鹿島町をへて、昭和二十九年九月の町村合併により新制鹿島町が誕生した。やがて、平成七年九月大野村との合併により鹿嶋市が成立したのである。
 今日、廚谷の御手洗川に沿ってJR鹿島線が走っているが、かつてはこの御手洗川が参道であったから、多くの神宮参拝者達は伏見台地を目ざしながら御手洗へと進んだであろう。また、水戸から南下する飯沼街道は廚台を下って神宮に至るから、北からの参拝者の中にはこの台地を通ったものがいたかもしれない。近世には神宮門前に社家集落が形成されたが、神宮の北側に位置する伏見台地は複雑な地形のゆえか近代になっても山林原野(低地部は一部耕地)のまま残され、やがて清真学園の創立を迎えることになるのである。
(『清真学園二十年史』より)